「あなたは、特別な人です。かみから選ばれたものです。」
このように言われると、あなたはどのように反応するだろうか?
実は、この言葉を用いて宗教活動を行っている団体をカルト教団と一般的に言われている。オーム真理教のみならず、多くの宗教で人が誘い込まれる場合、こうした言葉が使われる。しかし、客観的に見て欲しい。皮肉なことに、多くの特別な人と言われる場合、ごくごく普通の人にしか見えないのだ。
私もここ10年、一般的な末端の人達と接してきて気づいたことだが、末端の貧乏な人ほど、自分が特別な人であると信じていて、親からそのように特別な存在であるように言われている場合が多い。子供にキララ名をつけたり、自分の子の漢字を特別な読み方をさせようとする。そうした人ほど、社会の末端の人であり、貧乏から抜け出せないでいる。
実は、大企業は就職採用をする場合、キララ名がついている人を採用しないということはご存知だろうか?以前、経営コンサルの人が講演会で話していたのだが、キララ名をつけている親は、常識はずれなことが多く、子供のことで問題を起こしたり、何かとトラブルが多いそうである。それで、最初から大企業の人事担当者は、キララ名の人を採用しないということらしい。
へー、そうなのか?と、私はそのときはあまり深く考えていなかったが、最近感じることは、平凡で普通の人ほど、特別なことをしないとうまくいかないと思っているらしい。
しかし、本当に成功する人は、「素直な人」であり、特別なことはしない。うまく行く人は、オーソドックスなことを愚直なまでに繰り返し行っていくのである。自分が特別な存在だとは、全く思っていない。
実際、あなたの周りにいる成功している人に聞いてみるが良い。どうしたら、あなたみたいに成功できるのですか?と・・・
その人は、次のように言うだろう・・・
「自分より成功している人の言葉を聞いて、ただ、素直にそれを行っただけです。特別なことはしていません。運が良かっただけです。・・・」
そう、自分の考えに執着したり、頑固にならないで、「素直」に成功者の考え方ややり方を真似ただけである。・・・
最近、若い人たちにとって、ガムを食べることが減っているらしい。
・・・というニュースを何かで読んだ。
ネットを調べると、咀嚼力については、次のように出てくる。
ものをよく噛みしめることは、人間の本能的な欲求であるといわれている。
チューインガムが第二次大戦中にアメリカ兵の携帯食になっていたのはこの点を利用したものである。すなわち、チューインガムを噛んでいると精神的にイライラした状態がおさまる、緊張を和らげることができる、精神状態の安定化が図れると言われている。
野球でも外国の選手がプレー中にガムを噛んでいる場面を見かけるのは、精神面で効果があるからだそうだ。
また、最近ではガムの効用として、食後に長く噛むことで歯の清浄作用や、噛むことによりあごの発育、脳細胞への血行促進による眠気防止、老化予防にも効果があるらしい。
以前からガムに特殊な香料(眠気予防にカフェイン、口臭予防にフラボノ、疲労回復、栄養補助食品としてビタミンCなど)をくわえた効能ガムも多く販売されているが、実際には気分転換のための嗜好品としての役割がいちばん大きいらしい。
毎日30分以上ガムを噛み続けることで健康を維持することができる。このすばらしい食品をもう一度見直し、積極的に活用することを提案する。
このように、咀嚼力については、様々な効果効能が見込まれる。しかしながら、これらの知識が十分に生かされていないように思える。
高速道路を運転していて、ガムを噛むことは、眠気防止になるので必要なことだが、その辺、高速道路管理団体と、日本咀嚼協会やガムメーカー(例えばロッテ等)と、連携できないだろうか?
例えば、ETCカード(高速のチケット)を、サービスエリアの窓口に持っていくと、自分が入ってきたインターチェンジからそのサービスエリアまでの距離がGPSを使えば分かるので、その距離に応じたところで、ガムを無料配布する。ということだ。
そうすれば、眠気によって引き起こされる交通事故を随分減らすことができるだろうし、ガムメーカーは、消費者に宣伝する機会を得ることになる。そうなれば、ガムの消費が増えるのではなかろうか?WIN・WINの法則が成り立つように思える。
高速道路側とガムのメーカーが協力すれば、簡単に出来そうに見えるが、いかがなものか・・・
ちなみに私は、ガムメーカーや高速道路関係の回し者ではない・・・
最近、MLM(マルチレベルマーケティング)について聞くことが多い。そして、事業でそれなりの成功を収めている経営者に対しては、「MLMなどやめなさい」と言われる。
私も御多分に漏れず、「MLMなどやめなさい」と言われる側のひとりである。
ではなぜ、人はそのように言うのであろうか?
MLMについては、アメリカでは、立派な商取引きとして成り立っているが、日本においてはそうではない。
かつて、熊本で「天下一家の会」というものがあった。無限連鎖の始まりである。社会問題をもたらしたそのシステムは、不幸を招くもので、アリ地獄に陥るようなものだ・・・と言われた。
それで、国のほうも、そうした無限連鎖については違法であるとして、有限連鎖にするように法律を整えた。だから、今、システム上無限連鎖になっている会社は、まず存在しない。国の法律に従って、有限連鎖にして、MLMを展開しているのである。
しかし、それでも、「MLMなどやめなさい」と言われるのは、なぜだろうか?
それは、MLMをやっている人に問題がある。
MLMで成果の出ない人は、ねずみ講的な考え方を持っている。早くはじめると、儲かる・・・とか、自分の先にすごい人が出たら儲かる・・・と、思うものらしい・・・
つまり、ねずみ講的な考えとは、「人頼みである」ということだ。人に頼って、自分で努力しようとしない。しかも、素人がさも分かったようにして話をする。「誰々さんが言ったから・・・」と言っては、責任転嫁する。そんな人がたくさんいるから、関わりを持ちたくない・・・と多くの人は、考える。
また、MLMでの成功は、個人事業主(個人)としての成功であって、社会で認知されている法人格での成功ではない。MLMで成功した人は、きらびやかなステージで表彰を受ける。しかし、まともな会社の経営者で、「私はこれで成功しました」と言ってる人などいない。そう、松下幸之助や、本田宗一郎、孫正義等がそのようにした姿など一度も見たことがない。
経営者からすれば、「成功」は一過程であり、成功してからその後が大事である。「七つの習慣」の中にも取り上げてあるが、成功したあとに人が目指すべきこととして、「社会貢献」が挙げられている。経営者としていつも考えなければならないことは、自分の会社を通して、どのように社会に貢献できるか・・・ということだ。
会社が利益を上げて、税金を払うこと、寄付をすることなど・・・当然、社会貢献となる。
そうした考えを持っていれば、成功は当たり前のことであり、通過点である。
故松下幸之助は、かつて次のように語った。
「会社を存続させること自体、社会貢献である」と・・・
1980年12月8日22時50分、スタジオ作業を終えたレノンとヨーコの乗ったリムジンがアパートの前に到着した。2人が車から降りた時、その場に待ち構えていたマーク・チャップマンが暗闇から「レノン?」と呼び止めると同時に拳銃を両手で構え5発を発射、4発がレノンの胸、背中、腕に命中し、彼は「撃たれた! (I’m shot!)」と2度叫びアパートの入り口に数歩進んで倒れた。警備員は直ちに911番に電話し、セントラル・パークの警察署から警官が数分で到着した。
ウキペディアによると、ジョンレノンの死の状況は上記のようであった。
昨日、12月8日に、街へ繰り出して、たまたま三年坂のホコ天を通った際に、ジョンレノンの追悼のライブが行われていた。演奏をするのは、まだ20代の若者で、ジョンレノンを自分の師だと語っていた。その彼が、ジョンレノンの歌を歌っていたのだが、お世辞にもあまり上手ではなかったが、一生懸命歌っているのが印象的であった。聴衆は、20人くらい、年代的には、60代~70代の人も多くいた。もう30年以上も前の事だからである。時代が確実に変わっていっているのを感じさせた。
ジョンレノンの死を考えるときに、ジョンがホワイトアルバムの中に載せた「ハッピーネス・イズ・ア・ウォームガン」と言う曲を思い出す。幸せは、温かい銃からもたらされるという意味か?・・・なにか、皮肉な感じを受ける・・・
足早にその演奏をちらっと見ながら、通り過ぎる人も少なくない。年末のあわただしさの中、そのライブは一服の清涼剤を飲んだような感じだった。
私もジョンレノンの曲をよく聞いたものだが、そういえば、4年前にポールマッカートニーがロンドンオリンピックのオープニングセレモニーに出演して、「ヘイジュードー」を歌ったのを思い出した。ポールも現役の時と違って、声はかれていたなー・・・そう、思いながら、時代の変遷を感じた・・・
時代は、変わっていくのだ・・・来年は、2017年・・・
その人のゴールをどこに設定するかによって、人生は大きく変わってくる。
マラソンの選手であれば、ゴールテープを切ることを目標にするとゴールの手前でスピードが落ちてくるらしい。ゴールした先の何キロかまで目標を設定すると、良い記録でゴールにたどり着くらしい。
先日、福岡国際マラソンで川内優輝選手が3位になった。その川内選手が言っていた言葉が印象的である。
「日本代表になることだけを目標にするなら、世界で戦うことはできない。世界で戦うことを目標にするなら、当然、日本代表になることは通過点である。」
こうした趣旨であったと思う。確かに、目標をどこに置くかによって、到達点がどこになるかに影響する。大リーグのイチロー選手は、プロ野球の選手になることは通過点であった。
営業の人間であれば、契約の件数をあげることや数字が目標であるかもしれない。しかし、本当にその目標を捉えようとするならば、その先にゴールを設定するべきである。例えば、その契約によって、お客さんが満足し、そのサービスを使っている姿を描くのである。あるいは、契約したお客さんのその後にサービスを提供することまで描いておくと良いようである。そうすれば、契約を取ることに必要以上に緊張して、金額を割り引いてしまうことを避けられるだろう。
会社の目標も長期的目標、中期的目標、短期的目標など設定する。
長期的目標は、10年くらい先の事だが、私事で言えば、社長が次に代わっている状態である。その時、どのような経営になっているか考えなければならない。また、次の社長を育成していく必要もある。
中期的目標と言えば、2020年の東京オリンピックが終わり、経済が冷え込んでいる時代に入ることが予想される。その時までに、安定した収入が入るようにしておくことが必要だ。そのために、今、動かなければならないと感じている。
短期的目標は、毎月の売り上げ目標を設定して、どうすればよいか、また、決算の状況から判断して、利益が生み出される仕組みが出来ているか、絶えず、チェックする必要がある。
このように、常に、物事を長い目で捉え、目先の事だけに一喜一憂しないよう、注意していきたいものである。
毎年、12月になると「師走」と呼ばれる時期に入る。
「師走」とは、師が走る季節だからということなのだが、この「師」が誰なのかによってまたいくつかの説に別れる。
・師=御師
・師=お坊さん
・師=先生
いずれにしても、役職のある人はこの12月の時期、忙しいようである。そして、決まったように、この時期、人々が口にするのは、次のような言葉である。
「いやぁ~、1年が経つのが早い、早い。もう12月なんですね。今年正月が来て、今年の目標を立てて、ついこの間まで暑い、暑いと言っていたんですが・・・」
決まり切ったように話が出る。しかし、考えて頂きたい・・・
「去年の今頃、あなたは、同じようなことを言っていませんでしたか?」
実は、毎年同じことを繰り返しているのである。と言うことは、一年は本当に短いものだと感じる必要がある。だからこそ、やるべきことはやらないといけないし、すべきことはしなければならない。先延ばししてはいけないのだ。
人は老人になったら、ゆったりした動きをする。そして、大事なことを先延ばしにしてしまう。しかし、自分の寿命は確実に短くなっているのに・・・ゆったりしているのだ・・・
いつまでも若くありたいならば、動きが緩慢であってはいけない。しかし、師走の時期のように、あわただしく感じるときは、あわてて交通事故などに遭わないようにしたいものである。事実、今朝、マイカーで出勤途中、目の前で軽自動車と原付自動車が正面衝突をしていた。
これは、「慌ててはならない。注意して運転しなさい」という、ご先祖様からの警告かもしれないと思った。
自分の周りで起きることを注意深く観察して、警告のサインが出ている時がある。それをしっかりとキャッチし、謙虚な姿勢で日々を過ごしていきたいものである。
人生の悟りを得る・・・と言うと、とても大変なことのように思える。
確かに大変だろう。宗教家でもあるまいし・・・
と、思っていたら、ある人から“悟り”と言う言葉について次のように言われた。
“悟り”じゃなくて、“さとり”だよ。
人生の差を取るってことさ・・・
大人は子供にとって、経験を積んでいるから、大人が子供に話をするとなんでもわかっているように映ってしまう。
富士山の頂上まで登った人は、後から登ってきている人を見るときに、5合目にはこんなことがあったよね。8合目は、こんな気持ちで登っていたよね・・・と語ることが出来る。
その差なのさ・・・
なるほど・・・そうなんだ・・・
“さとり”って、人生の経験を積めば積むほど培えるものなんだ・・・
そう思うと、意外にわかりやすくなった・・・
先日、ある方の「メンタル・マネジメント」の講義を受けることが出来た。
初めて聞くことについては、目から鱗の状態・・・
でも知っていることについては、なるほど、なるほどと聞く・・・
やはり、自分の知らないことについて話があると、この人“悟っているな”と思ってしまう。
特に、その人が実際に人生に成功している人であればあるほど・・・すごいと思ってしまう。
でも、その人にとっては、成功は当たり前の事だと思う。
成功哲学について学ぶ、ということ自体、自分がまだまだ成功していないんだ・・・
朝起きて、服を着替えて食事をし、歯を磨いて・・・
なんて、特別な意識をしないでやっている。
そんな感じで、成功する考え方、成功するやり方をしていれば、きっと結果がついてくると思う。そんな人が増えてきて、誰もが成功するのが当たり前になったら、世の中が楽しくなるに違いない。
それからが本当の人生だ!
最近、背中が痒くなった時に、“孫の手”が欲しいと思うようになった。私はまだ、孫はいない。・・・いつもの通り、アマゾンに注文を起こした。なんと、当日発送で、値段も432円。送料もかからない。
便利になったものだ。以前なら“孫の手”が何処に売ってあるか、小売店を探して回らないといけなかった。どうしても小売店になければ、熊本なら水前寺や熊本城の観光お土産店にでも行かなければならない。
世の中の流通の仕組みが変わってきたのだ。パソコンが便利になったこともあるが、家に居ながら、全世界のものの買い物ができるようになった。今の時期、ボージョレーヌーボーもネットで買えるし、車だってネットで買えるのだ。
ちなみに、当社もネットで車を購入したことがある。ニッサンクリスピーという軽バンである。今年の7月に購入した。当時、熊本震災の後で、工事現場があちこちに発生していたので、車も数が足りなかったのである。
この軽バン、ネットで非常に安く手に入った。平成24年もので2年型落ちである。走行距離4万6千キロ、車両価格は46万円だった。タイヤを全部新品に換え、車検費用と手数料などを含めると、76万円ほどで手に入った。
驚いたことに、この車購入して任意保険に加入した時、なんと車両価格の評価が94万円であった。ビックリ(笑)
上記のように、今、工事部は“猫の手”を借りたいほど忙しいようである。工事課長に言わせると、一日一軒は、熊本震災復旧のために動いているそうな・・・
よく見てみると、“猫の手”も“孫の手”もよく似ている。
どちらも、工事現場には役に立ちそうでない・・・
営業は、その人の人柄の良さが相手に伝わって、成果を生み出すということを言われることがある。同じ商品やサービスを伝えるのに、Aさんからはバツでも、Bさんからはマルと言う場合がある。
なぜ、Aさんからでなく、Bさんからだったのですか?と後ほど聞いたとき耳にしたことがあるが、「ただなんとなく・・・」「なにか、Bさんの方が、感じが良かったから」etc・・・とお客さんに言われたことがある。
一体全体、どこがどう違うのだろうか?・・・わたしもかつて、営業の仕事を行っていたことがあるが、ある時、契約が驚く程、取れるようになっていた頃があった。どこをどう変えたからだろうか?
いや、当時を思い返しても、特別に何かを変えたという意識はなかった。ただ、最初、相手の話をよく聞き、ニコニコしながら話を進め、後に理路整然とこちらからの話を進めていたような気がする。
そのスタイルが、相手のニーズにあっていたのかもしれない。
営業は何事も、動きながら学んでいくことが多い。だから、机にしがみついて、話のトークができたからと言って、それを実践すればうまくいくとは限らない。
むしろ、動きながら動きながら・・・お客さんからは、叩かれ叩かれしながら・・・学んでいくことが多いような気がする。
江戸中期の禅僧で、白隠禅師という方がおられる。当時、衰退していた臨済宗を復興させ、「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とまで謳われた方である。その方の言葉の中に、次のようなものがある。
・・・本当の修行は動中の静にある・・・
「静中の静に比べて、動中の静は百万倍も難しい」とは、いったいどういう意味だろうか。
この点、現代の宗教家であり、経営者でもある深見東州氏は、次のようにわかりやすく解説している。
つまり、白隠禅師は、
「山の中での修行は誰だってできる。だが、ひとたび俗界に下りてきて生活を始めたら、異性関係は乱れ、お金では欲望に目をくらませ、人間関係では激しく葛藤する。これがもっぱらであるが、それではダメである。そのような姿は本当の修行ではない。本当の修行とは動中の静にある。すなわち、日常生活の中で座禅しているかのように、外相にとらわれない静かな境地を維持しなければならない」と説いているわけである。
全くそのとおりである。白隠禅師のいう「動中の静」にこそ、営業の人間のあるべき姿を見出すであろう。
職業を持ち、家庭を営む。この一日二十四時間の瞬間瞬間に修行があると言うわけだ。
我々は、宗教家でも何でもない。ただ、営業の人間のみならず全ての人が、常に様々な行動をしつつも、心の中は、座禅をしているかのように、まったくゆるぎのない自分でありたいものである・・・
以前、友人から血液型について、面白いことを聞いた。それは、歴史上世界の聖人と呼ばれる人たちは、血液型のそれぞれ特徴を備えているということだ。それは、一体何か?
マホメットは、O型。キリストは、B型。釈迦はA型。孔子はAB型である。と言うのだ。
もちろん検証しようとしてもできないが、面白い捉え方である。
また、このようにも言っていた。アメリカは、O型社会。日本は、A型社会。インドはB型社会である。では、AB型はどうかと言うと、ユダヤ民族らしい。
そして、世界中が戦争になったら、一番先にいなくなるのがAB型で、その次がA型、そしてB型がいなくなり、最後に残るのがO型である。とも言っていた。
へぇー、そんな見方もあるのか・・・面白いことをいうやつだ。と思っていたら、「あなたの血液型は何型ですか?」と、聞くやつが多くて、血液型って何???と思った次第である。
ただし、この質問、海外に行ったときは、気をつけて欲しい。だって、海外では、『血液型占い』というものがないからだ。
私の知人が、かつて、アメリカで仕事をしていたころ、あるアメリカ人に血液型は何型か聞いたことがある。そして、血液型で性格がわかるということを話したところ、怪訝そうな顔をされたそうだ。アメリカでは、『血液型占い』という概念がないからである。
それは、ヨーロッパでもそうで、日本だけのようである。
ただ、全く血液型が関係ないのかというと、面白いことに、遺伝子のレベルで調べてみるとわかってくる部分がある。
DNAは、A、T、G、Cの4種の塩基から出来ている。遺伝子のレベルで血液型を調べてみると、A型の人は、血液のDNAの片方が突起しており、B型の人は、A型の反対部分が突起している。AB型の人は、両方が突起しており、O型の人は、何も突起していないそうだ。
その血液が、人の全身を回っているから、血液がその人に特定の考え方のくせや行動のくせを作り出しているのかもしれない。あくまでも仮説の部分ではあるが、人は、右脳人間と左脳人間というように、考え方の癖や行動の癖を持っている場合がある。
そして、これまでよく言われてきたように、A型の人は、緻密で規則にこだわり、枠にはまった生き方をするとか、B型は、自由奔放で、個性が強いとか言われる。
そうした部分が、遺伝子レベルで血液が突起していることと関係があるのかもしれないが、AB型の人は、A型の特質を示したり、B型の特質を示したり、ころころ変わるという印象を与えているのかもしれない。
また、O型の人は、AでもBでもなく、いつもニュートラルな状態の人で、こだわりのない人と映っているのかもしれないが、悪く言えば、普段から何も考えていないので、余計なストレスを抱えないでよいのかもしれない。
このように、一見、『占い』と思ってしまうと根拠がないように思えるが、遺伝子のDNAのレベルで捕らえると案外、血液型占いは、当たっているのかもしれない・・・(笑)
また、血液型と性格をDNAレベルで検証出来たら、ノーベル賞ものかもしれない・・・(笑)