営業の極意とは?

営業は、その人の人柄の良さが相手に伝わって、成果を生み出すということを言われることがある。同じ商品やサービスを伝えるのに、Aさんからはバツでも、Bさんからはマルと言う場合がある。

なぜ、Aさんからでなく、Bさんからだったのですか?と後ほど聞いたとき耳にしたことがあるが、「ただなんとなく・・・」「なにか、Bさんの方が、感じが良かったから」etc・・・とお客さんに言われたことがある。

一体全体、どこがどう違うのだろうか?・・・わたしもかつて、営業の仕事を行っていたことがあるが、ある時、契約が驚く程、取れるようになっていた頃があった。どこをどう変えたからだろうか?

いや、当時を思い返しても、特別に何かを変えたという意識はなかった。ただ、最初、相手の話をよく聞き、ニコニコしながら話を進め、後に理路整然とこちらからの話を進めていたような気がする。

そのスタイルが、相手のニーズにあっていたのかもしれない。

営業は何事も、動きながら学んでいくことが多い。だから、机にしがみついて、話のトークができたからと言って、それを実践すればうまくいくとは限らない。

むしろ、動きながら動きながら・・・お客さんからは、叩かれ叩かれしながら・・・学んでいくことが多いような気がする。

江戸中期の禅僧で、白隠禅師という方がおられる。当時、衰退していた臨済宗を復興させ、「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とまで謳われた方である。その方の言葉の中に、次のようなものがある。

・・・本当の修行は動中の静にある・・・

「静中の静に比べて、動中の静は百万倍も難しい」とは、いったいどういう意味だろうか。

この点、現代の宗教家であり、経営者でもある深見東州氏は、次のようにわかりやすく解説している。

つまり、白隠禅師は、

「山の中での修行は誰だってできる。だが、ひとたび俗界に下りてきて生活を始めたら、異性関係は乱れ、お金では欲望に目をくらませ、人間関係では激しく葛藤する。これがもっぱらであるが、それではダメである。そのような姿は本当の修行ではない。本当の修行とは動中の静にある。すなわち、日常生活の中で座禅しているかのように、外相にとらわれない静かな境地を維持しなければならない」と説いているわけである。

全くそのとおりである。白隠禅師のいう「動中の静」にこそ、営業の人間のあるべき姿を見出すであろう。

職業を持ち、家庭を営む。この一日二十四時間の瞬間瞬間に修行があると言うわけだ。

我々は、宗教家でも何でもない。ただ、営業の人間のみならず全ての人が、常に様々な行動をしつつも、心の中は、座禅をしているかのように、まったくゆるぎのない自分でありたいものである・・・

2016年10月31日