サムライについて、書くときに、「武士道とは死ぬことと見つけたり」の「葉隠」の言葉を思い出す。オリジナルの「葉隠」とは、狂気の思想を記した著書ではない。
それは、生か死かどちらかを選択しなければならない時は、死ぬ方を選ばなくてはならない。ということである。
別にそれ以上の意味はない。
覚悟をきめて前に進むだけである。という意味だ。
生死をかけるような場面では思いどおりに行くかどうかは分からない。
もし、思い通りにはゆかずに生きながらえたなら、それは腰ぬけである。
その境目はとても難しい。忠臣蔵の赤穂浪士は、主君のアダを討った後、切腹をした。
明治維新の原動力になったのは、吉田松陰である。松陰は、自らの思想を貫いたがゆえに切腹した。その吉田松陰の死が明治維新を起こした力となったと言って過言ではない。
逆に、当てが外れて死ねば、犬死にであり気違いざたであるが、これは恥にはならない。
これが武士道の本筋である。
では、どうすれば、現代において、サムライのように生きることが出来るだろうか?
ここで、仏教の八正道の教えを取り上げたいと思う。八正道は、反省の教えであり、自分に当てはめて自分を変えていくことを意味する。
具体的には、次の八つを考えながら、日々反省し、過ごすことだ。
正見・・・正しく見ること・・・自分は物事を正しく見ているだろうか?
正思・・・正しく思うこと・・・自分は物事に対し正しく思っているだろうか?
正語・・・正しく語ること・・・自分の語ることは正しいことを語っているだろうか?
正業・・・正しい行い・・・自分の行いは清廉潔白か?
正命・・・正しい命の使い方・・・自分の命の使い方は正しいものだろうか?
正精進・・・悟りの道を歩んでいるか・・・日々が修行であり、自分が向上しているだろうか?
正念・・・正しい夢、正しい理想・・・自分の夢や理想が利己的でなく、周りの人々を幸せにするものだろうか?
正定・・・自分を正しく見つめる。深く見つめること・・・自分を過大評価したりせず、謙虚に生きているだろうか?
こうしたことを考えながら、八正道で人は徳を築いていくことができるのだ。
毎朝毎夕、八正道で徳を築きながら、「死」ということを意識し、常に死んだ身になっていれば、武士道と自分は一体となり、一生落ち度がなく、職務をまっとうすることができる。
そう、あなたも、現代のサムライになれる!
日本と言う国は、どこまでお人好しな国なのか?
高齢者が増えたからと言って、「高齢者をいたわりましょう!」という、論調ばかりで、若者たちの声をどれだけ聞いているのだろうか?
“老人が説教のつもりで若者に嫌味を言ったところ… 若者が言い返した言葉に撃沈される! 公共の乗り物で、お年寄りに席を譲ろうという美徳は、 今の時代もう一昔前の時代の産物となってしまったのか? そんなことを考えさせる出来事があるブログで取り上げられていた。
次の文章をネットから拾ってきたので、参考にしてほしい。
ある休日の電車内。座席はほぼ埋まった状態。 立っている人がちらほら見受けられる程度でした。 投稿者さんの前に男性一人と女性二人が立っていました。 いずれも60代半ば過ぎ位と見受けられます。 私の向かい側座席の前には男性1人、女性2人のハイキング帰りらしい高齢者が立っていた。
私に背中を向けているから時たま見える横顔で判断するしかないが、60代半ばぐらいか。 彼らの目の前の座席には若者2人と50代ぐらいの女性1人が座っている。 若者は2人とも茶髪、1人はサングラスをしていた。 しばらくすると立っている高齢男性が、前に座っている若者たちに向けて 聞こえよがしに嫌味っぽいことを言い始めました。 投稿者さんもハッと前の様子に目を止めました。
「最近の若い者は年寄りを立たせても平気なんだから」 「ちょっと前は罪悪感からか寝たふりをしたもんだが、最近じゃ寝たフリもしないからふてぶてしい」 かなり大きな声でした。 どうやら高齢男性は女性二人を座らせたくて若者に席を譲らせようと嫌味を言い始めたようです。
しかし、この後若者の一人が驚きの反論を始めました。
「あんたたちさぁ、山は歩けるのに電車では立てないの?それっておかしくない? 遊んできたんだろ?こっちはこれから仕事に行くところなんだよ。 だいたいさぁ、俺みたいなヤツが土曜日も働いてあんたたちの年金を作ってやってるんだって 分かってる?俺があんたみたいなジジイになったら年金なんてもらえなくて、 優雅に山登りなんてやっていられないんだよ。とにかく座りたかったらシルバーシートに行けよ」
これは相当痛い所をついてきました。 高齢者グループは押し黙ったまま、次の駅で降りて行ってしまいました。 恐らく車両を乗り換えたのでしょう。 この話は2005年の頃だから12年も前のこと。 一見、傲慢な高齢者の小言に逆ギレした若者が正論で言い返しスカッとした話に聞こえます。
昔の高齢者は、年をとると、孫の面倒を見たり、町内のいざこざを解決したり、嫁のなり手がない独身の男性の相談にのったり、世話をしたり、それなりに忙しかったように思う。しかし、今の高齢者は、どれだけ周りの人のために時間を作っているのだろうか?昼間から優雅にカラオケに行ったり、ゲートボールをしたり、さも年金は自分たちで作ったかのように思っている。
そんな、老人を見るたびに、むかつく若者がいるのは致し方がないことだ。
しわ寄せは、若者たちに来ているのに・・・
「最近の若いもんは・・・話にならん・・・」と言ってる高齢者の皆さま、
どうぞ、よく考えてくださいな・・・
夏の終わりの頃、夕立がさーっと降ったあとに、東の空に虹がかかることがある。今年も何回か虹が架かっているのを見た。
虹は、なんのためにあるのだろうか?
科学的に見るならば、太陽の光が空気中の水蒸気をプリズムのようにして七色の光に屈折するために起こるものと言われている。しかし、現代の我々は、そのように説明されてわかったようなふりをしているのだが、昔の人々は、そんな科学の知識など知る由もなかった。
そうした昔の人々は、虹を見て、なんと思ったのだろうか?
自分をその時代の人々に置き換えて考えてみた。・・・そうすると、見えてきたのが・・・
虹は、滅多に現れない出来事の素晴らしい結果である・・・つまり、人が潜在意識の中で実現したいと思っている究極のイメージであると言えるのだ。
ある人から聞いた話だが、20世紀の最大の発見は、「思考は現実化する」ということだそうだ。人は、自分が思った通りの人生を送っているというのだ。「どうせ、うまくいかないと思っている人は、どうせ、うまくいかなくなる人生を送るらしい」しかし、「必ず良い結果になるということを心から信じて、行動を続ける人は、最終的には、良い結果になっていく」のだ。
なりたい自分になれるという事が、「虹をつかむ」ということではなかろうか?
あなたは、このなりたい自分、こうありたい自分のイメージをどれだけ、明確にしているだろうか?
あなたが、自分の子どもの頃に描いた憧憬をもう一度、思い出して欲しい。
そこには、素直に、なりたい自分があったはずだ・・・