目で見ることと心眼で見ること

物事に対してみるときに、二つの見方があるという。それは、普通に目で見ることと、心眼で見ることである。

普通で見ることは、別に説明することはない。しかし、心眼で物事を見るということについては、説明が必要である。「心眼」とは、心の目である。物事の本質を見極め、物事の表面に出ていない人の深層心理を知ろうとする「目」である。

心眼で物事を見ようとする人は、人の表面的な言葉や態度に騙されないようにする。その人がなぜ、そのように言うのか?その人がなぜ、そのようにするのか?その人の心にある動機を確かめるようにする。例えば、上司がいるときは、一生懸命に仕事をし、いないときは、怠けているなどのその人の心理を見抜けるようになっている人のことだ。

もちろん、心眼が発達するためには、人生経験とか、洞察力が求められる。人が見ているときに、どんなに華やかに動いたとしても、誰も見ていない状況になったら、さぼっているのであれば、心眼が発達している人から見たら、一目瞭然である。

二宮尊徳が、そうした心眼が発達している人であった。二宮尊徳とは、古い小学校に行くと、必ずと言っていいほど、薪をかつぎながら本を読んで歩いている江戸時代の少年の銅像を思い出す。尊徳は、小田原藩のお家立て直しを行った人である。次のような逸話がある。

尊徳がある土木現場に出たところ、一人の人夫がとびぬけて精を出していた。あまりにも一生懸命に働いているので、尊徳はその人夫に近づき、こう言った。
「お前は、人をだまそうとしてそんな働きをする。私がこの場を去れば、きっと怠るだろう。人の働きには、限界がある。何なら私が、一日ここにいてみようか?どうだ、働けるか?」
人夫は、驚いて、平伏したという。
また、別の一人の人夫がいた。年は60くらいで、現場で休憩も取らないで、働いていた。尊徳が、「休み時間くらいは休め」と言っても休まずに働いた。その人は、次のように言った。
「私は、歳をとって、十分に働けません。元気なものと一緒に休んでいては、何も仕事はできません。」と言って、人の嫌がる仕事をつづけた。尊徳は、この人に、「お前は、他の人に抜きんでて丹精な仕事をしたから」と言って、褒美金を出したという。

人を見るのに、物事の本質を見る目を培わなければならない。特に、上長の立場にいる人には、求められることである。裏表があるような人なら、それが、見る人からしたら、バレバレであることを覚えていてほしい。

二宮尊徳は、「積小為大」を説き続けた。コツコツと自分にできることを続ける人は、のちに大きな成果を生み出すことができるという教えだ。それを生涯を通して、その生き方で現わした人である。

我々も、仕事をするときに、手抜きをしたり、人が見てるからとかに影響されないで、立派な仕事をおこない、成果を生み出していきたいものである。

2019年3月6日